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その6・千里山支部  石井幸子さん
10.6.21
 兎に角、よくしゃべる女性でした。「話す」ではなく「しゃべる」という言葉が「ぴったり」です。だから、役員会の用事や集金に行くときは、だいたい20分から30分は覚悟していました。入り口の土間のところに座って「うん」「うん」と頷いて、時には「そうですね」と合いの手を入れると言葉が途切れることなく出てきます。途中で話題が急に変わるので集中していないと判らなくなります。正直に生きている人ですから隠すことがありません。「しゃべり」を聞いていると石井さんの「ものの見方、考え方」が解かってきます。筋が通らないことにはいつも怒っていました。お客さんがいても構わず民商のことを話してくます。石井さんの美容院に来ている方は、この「しゃべり」が好きで、また、気取らない人柄に惹かれて来ていたのではないかと思います。民商が取り組む署名はご近所の方やお客さんの名前で埋まっていました。店の壁に民商の看板を張り、お客さんにも署名を気さくに勧め、民商と仕事との垣根がありませんでした。ありのままに生きていた方だったと思います。3年前に入院されたときにお見舞いに行くと、遠くから石井さんの「しゃべる」声が聞こえてきて、笑ってしまいました。
 長いこと千里山支部の役員もしていただきました。他の男性役員は自分の子どもか弟みたいな年齢です。あるときの選挙で役員の一人が「民主党に入れた」と報告すると、他の役員は何も言わないで聞き流しているとき、石井さんだけは「なんで」と批判していました。動じず、信頼する仲間だからはっきりと自分の考えを主張するさわやかさをもっていました。その役員も石井さんのことを大切にしていました。このように好感をもたれていたところも石井さんの魅力でした。また、若い役員が支部会計の石井さんに活動費をもらいに行くと「無駄遣いをするな」と叱っていたようです。私が訪問した際、その話を何度も聞かされました。支部費を健全に使用すること。これは石井さんの遺言でもあります。仲間であると共に大切なご意見番でした。
 演歌が好きでした。お客さんがいないときはカラオケを流して、口ずさみながら編み物をしている姿を良く見かけました。カラオケの仲間とよく連れ立ってスナックや喫茶店にも顔を出していたようです。自分の店に来た人にお土産を持たせるのも石井さんの得意技でした。私も何回貰ったかしれません。
 石井さんが亡くなって2年がたちました。毎週1回、配達のときに石井さんの店があった家の前を通ります。その度に石井さんを思い出しています。「しゃべり」が聞かれず寂しくなりました。
(事務局 西尾 栄一)


その5・業者婦人のUさん、Kさん
2010.5.31
 「業者婦人」と言う言葉を聞くとき、私の脳裏には、「たくましさ」、「優しさ」、「粘り強さ」、そして、生きていくうえでの「したたかさ」などが浮かびます。それは、お父ちゃんを助けながら商売をし、その上、家族を守りながら生きている沢山のお母ちゃんの姿を見てきたからだと思います。今回は、既に亡くなっている2名の業者婦人の遺言のような言葉を紹介します。

「私の生命保険で滞納している社会保険料を払って」
 私が吹田民商に来た2年目の1999年にUさんの会社が税務調査を受けました。打ち合わせのとき、色々と質問すると、答えがポンポン返ってきて気持ちよいくらいでした。朝から晩まで働き通しで、注文の電話がかかってくる度にテキパキと処理をしていた姿を思い出します。法人決算の手伝いもさせていただきました。帳面のつけ方が合理的で型にとらわれていませんでした。署員も何も言いませんでしたから、問題がなかったのでしょう。Uさんは資金繰りで年中悩んでいました。試算表作成の作業でよく民商に来ていました。そんなUさんが急に入院。2003年か2004年の春だったと思います。「死」を覚悟した入院のようで、当時担当だった山崎局員に申告書を早く作ってとお願いの電話が病院から入っていました。そのとき、Uさんの友だちから聞かせていただいたのが「私の生命保険で滞納している社会保険料を払って」と言っているという言葉でした。

「西尾君、内緒にしてや。うちな、パチンコで稼いでんねん」
 Kさんは食品の製造販売の仕事をしていました。お父さんも子どもさんも一緒で、家族総出で店を盛り上げていました。朝早くから夜遅くまで、兎に角、よく働いていました。店頭に並ぶ商品は色鮮やかで工夫の様子がわかります。年末調整のときには、暗い夜道をいつも自転車に乗って民商の事務所に来ていたのを思い出します。確定申告の時には、自分がつけた帳面に基づいて自主申告していました。帳面はびっしりと書き込まれています。これを仕事が終わってからつけていたのです。Uさんと同じようにKさんも資金繰りで悩んでいました。銀行と交渉するときに帳面が役立っていたようです。子どもさんが結婚すると言う話をきかせていただいたときは本当に嬉しそうでした。そんなKさんが一度だけ私に弱音を吐いたことがあります。「西尾君、しんどいな。よそはどうや?うちな、西尾君だけに言うけど、パチンコで稼いでんねん。家族には内緒やで。」と、しみじみと語りました。
 
 このお二人のことばは「業者婦人」の姿を象徴しています。いつまでも忘れなれないことばです。
(事務局・西尾栄一)


その4・上田尚雄さん
2010.5.10
 上田さんが民商に入会されたのは、2001年5月28日のことです。1931年生まれで70歳。私が担当したのは上田さんが入会された年の9月からでした。最初は、奥さんが自宅におられて会費集金も奥さんを通してできていましたが、数ヵ月後には、奥さんがいなくなりました。そのため、長期間、会えない状態が続きました。行方不明になったと心配して何度も訪問しました。あるとき、夜の10時ころに自宅を訪ねてみました。留守と思って帰ろうとすると車が入ってきて、上田さんが降りてきました。ようやく本人と会うことができた瞬間です。話を聞いて驚きました。朝5時か6時ころには家を出て枚方まで造園の仕事に行っており、毎晩この時刻にかえって来るそうです。奥さんが、自分が渡した金を持って家出したとも言っていました。それでも、そのときに、滞っていた会費を一括で払ってくれました。その後私は、毎月、集金日を決めて、夜10時ころに上田さんを訪問することにしました。毎回車の中で灯りをつけて本を読みながら待っていました。
 上田さんは役所から届いている督促状のことを心配していました。事情を聞くと、弟さんの借金の保証人になり、弟が行方不明で、自分が毎月返済していること、税務署や市役所、府税に税金の滞納があることもわかりました。それで、一日仕事を休んでもらって分納の交渉に行きました。そのときに付き添ってくれた40歳代の優しそうな女性がいます。驚くことに、逃げた奥さんの妹さんでした。家庭のある方でしたが、上田さんのお金を預かってこれ等のところに毎月支払をしてくれていたのです。3人で4箇所に訪問して、滞納した事情と今後の支払計画を説明しました。
 上田さんのことで忘れられないのは、2005年の夏のことです。国民金融公庫の支払が完了し、累積した延滞利息の交渉をした日のことです。この日は相川駅に3人で集合して電車で十三の支店に出向きました。大幅に減額してもらおうと打ち合わせもしていきました。そしたら、担当者は上司と相談して全ての延滞金を免除すると回答してくれたのです。私も驚きました。今までの経験から1000万以上の延滞利息を1割程度にした経験はありましたが、ゼロというのは初めてです。そのとき上田さんの目からみるみると涙が出てきました。支店を出てからも、電車に乗ってから、相川駅につくまで、ずっと泣き続けていました。どんなに嬉しかっただろうと思います。その後、税金の滞納分も全て完納しました。税務署とも交渉して延滞金の一部免除も実現しました。そんな上田さんですが、2006年の春に癌で他界されました。市民病院に見舞いに行ったときの喜びと悲しみが入り混じった複雑な顔を忘れることができません。ひたすら働き、社会の規則に誠実に向き合いその責任を全うした76年の生涯でした。
(事務局・西尾栄一)


その3・M・Nさん
2010.4.17
 1998年秋のことです。M・Nさんから頼まれたと若い男性が私に電話してきました。「今、日掛け業者に追われて、吹田警察署に逃げ込んでいる。吹田民商の西尾に連絡するように頼まれた」というものでした。すでに夕方を過ぎて外は暗くなっていました。私はまだ彼と出会って1ヶ月くらいで詳しい事情は知りません。吹田警察に出向いてみると、数名の男に見張られたM・Nさんがいました。警察に申し入れても民事だからと相手にしてくれません。男たちはあの手この手で迫ってきましたが二人で必死に防戦しました。「警察の外に行くと危険だから動くな」と、当時局長の山崎さんからの助言を受けて夜中までいました。事務所に戻ると当時会長の永田さんと山崎さんが私を迎えてくれたことを覚えています。翌朝、彼は、隙を見て逃げ出し民商まで来ました。驚いたのは会長と局長が相談して、暫くの間、民商会館の和室をM・Nさんに提供し、仕事も永田さんのところでつかっていただくことを決めてくれたことでした。とてつもなくすごい民商だと思いました。
日掛け業者の執念はすごいものでした。便宜的に離婚して郷里に帰った奥さんの実家を突き止め何日間も張り込みをしました。不安になった奥さんが何度も事務所に電話してきたほどです。M・Nさんをつらかったと思います。じっと耐えて仕事をするしかありませんでした。
数ヵ月後に、山崎さんが低料金の部屋を見つけてくれました。当時支部長の村上さんに布団や簡単な生活用品をもらって引っ越しました。3人で部屋の掃除もしました。日掛け業者にも見つからずようやく平穏な生活が続きました。永田さんの仕事も慣れて順調でした。大阪では買い物もできないので明石まで行ってくつろいでいる話をしてくれたこともあります。
しかし、それも長く続きませんでした。急に連絡もなく居なくなってしまったのです。家族とも離れて、将来の展望も見えず、不安だったのではないかと思います。家賃も入らず、大家さんから出て行くように言われました。後始末を私一人でしました。雨の日でした。アパートから彼の荷物を運び出しながら涙が止まりませんでした。同僚の事務局員が「手伝う」と言ってくれたのですが、私は断りました。自分の不甲斐なさを胸に刻み込むつもりでした。吹田に来たばかりで周囲の目を気にしながら仕事をしていた自分を恥じました。彼のつらさにより添えなかった自分の未熟さも感じました。今、思い出しても涙が出ます。沈んでいる私に「早く、被害者の会をつくらないと」と山崎さんが励ましてくれました。「さざなみ」の結成はそれから1年後の2000年11月でした。彼がどこかで元気にしていることを願っています。
(事務局・西尾栄一)


その2・田中良一さん
2010.3.24
 田中さんのことを知っている方は少ないかもしれません。2008年の6月から1年間だけ千里山支部の役員をやっていただきました。あまり多くのことを語る人ではありませんでしたが、行動することで自分の考えを示す人でした。今年の1月25日が永久の別れの日となってしまいました。昨年の2月の班会のとき、あまりにも元気のない顔をされていたので尋ねると癌になったと伝えられました。「仕事もやめたし、民商もどうしようか」と聞かれました。私は「そのまま民商は続けたほうがいい。共済もあるけれど、民商の運動に参加していたほうが、気も紛れるよ」と答えました。「短い命かも知れないけれど、民商の仲間として最期を迎えて欲しい」と、私はどんな会員さんに対しても思います。田中さんの場合は千里山支部の役員になっていただいたばかりで、ようやく様々な話しができるようになったときでしたから尚更でした。自分が民商を通して社会に貢献をしていること、自分の一生が民商と触れ合ったことで豊かになったことを実感して欲しいと願います。田中さんは、私のことばを受け入れて民商に留まり、今まで通り、ビラ配りや配布集金活動、11月にあった会員さんの調査の立会いなどに参加してくれました。昨年の10月ころまではジョギングをして身体を鍛えていました。病院からも何度も電話をいただき癌と正面から闘っている様子を聞かせていただきました。最期まで会費のことを心配してくれました。
 田中さんに「どうして民商に入ったのですか」と聞いたことがあります。以前は「T」という名称の組織に入っていたそうですが、確定申告のときに収支計算を見ることもなく、いきなり、「いくら税金を払いますか」と聞かれて、「俺を馬鹿にするな」と抗議して「T」をやめたそうです。その後、トラックの購入資金のこともあり、民商のビラを見て2000年の2月に民商に入会されたそうです。私に話をするときにも思い出して「そんないい加減な事はできない」と真剣に怒っていました。私はその話を聞いたとき田中さんと深いところで結びついたような感動を覚えました。私が田中さんに対する信頼を高めた瞬間でした。千里山支部では何度も税金の学習会をもち、収支計算や税額計算の勉強をしてきたので、田中さんの信条が民商の理念や行動と合致していたのだと思います。班会には必ず参加されていました。毎年の1月班会には自分のつけている帳面を持ってきて計算して申告書をほぼ書き上げていました。これから支部の役員として活躍して欲しいというときにお別れとなりました。シャイで、ハニカミながらの笑顔が素敵な人でした。       
 (事務局・西尾栄一)


その1・村上宣昭さん
2010.3.2
 私が吹田民商の事務局に入って11年が過ぎました。この間多くの出会いがあり、つらい別れがありました。中小業者として、業者婦人として懸命に生きてきた庶民の記録を何らかの形で残したいと思っていました。それを「民商と共に生きた仲間たち」として紹介することにしました。1回目は多くの皆さんから愛され2003年4月に逝った村上宣昭さんです。

 私が村上宣昭さんと始めて出会ったのは1998年10月でした。吹田民商に入局し、中央支部を担当することになってからです。「西尾君が中央の担当になってくれたから自信をもって吹田民商を紹介できるわ」と吹田に慣れない私を何度も励ましてくれました。「吹田民商を日本一の民商にする」と言うのが口癖で、1999年の春の運動では、その言葉通り、支部で毎日拡大に挑戦し見事にやりあげました。支部長の村上一郎さん(現副会長)とコンビで毎日のように会員訪問をして会員と民商の距離を縮めていきました。中央支部は今でも要求相談が多い支部で、事務局担当の伊保さんはいつも大忙しですが、その素地はこの時期に作られたのではないかと思います。
 宣昭さんは、高浜神社のすぐそばにある村上食堂を経営していたお母さんに愛情いっぱいに育てられたようです。働いているお母さんの話をよくしてくれました。自分が障害者として受けた差別や理不尽さを、自分の中で全て飲み込んで人と接する人でした。「おもちゃ屋」を経営した経験や民商の事務局員の経験もあり、その温かい人柄が相手に伝わって、相談者が徐々に心を開いていく様子が傍で見ていてわかるほどでした。亡くなる前には、自分のお兄さんを民商に入れ、支部の仲間に何度も頼んでいました。
 最大の思い出は宣昭さんが起した交通事故の裁判です。相手は20歳代の若者。事前の話し合いで和解ができず裁判となりました。弁護士も立てず宣昭さんと二人で準備書面や答弁書を書き上げました。中西さんなどにも協力していただき現場検証も行いました。夜遅くから始める打ち合わせの際、「ゴメンな、西尾くん」と何度も謝っていた様子を思い出します。宣昭さんは必ず自分の考えをまとめて対策会議に臨んでいたので、私としてはそれを文書にすればよかったのです。一審では敗訴しましたが2審で和解が成立し、金額も1審の半額となりました。宣昭さんは亡くなる前にはこの支払を全部完了させていたようで、「少ない収入からよく払えたね」と言うと笑っていました。どんな人からも愛された貴重な人でした。
(事務局・西尾栄一)